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旅と日常とそれらを超えたスペース

死と、役割からの解放

母が亡くなり1カ月ほど経った。

 

「家族」という枠で言うと、メンバーが一人減ったことになる。

そこには新しいバランスがあり、メンバーそれぞれが以前とは異なる新しい振る舞いをしているように見える。

母が亡くなる前と後で、どうバランスが変わったのか。

 

例えば父は、母がいなくなってからの方が、のびのびしているように見える。

私自身もそうかもしれない。

 

私の今までの選択・行動は、心のどこかで母に遠慮し、母の顔色を伺いながら、常に母を超えないようにしてきた気がする。

極端にいうと、母よりお洒落をしてはいけない、母より美しくなってはいけない、母より幸せになってはいけない、などなど。

 

母が実際にどう思っていたかは知らないが、母の満たされない思いを言外に感じ、母からの嫉妬を避けることが私の行動指針になっていたのではないか。そのために自分の行動を制限してきたのではないか?

 

私は、両親という夫婦のドラマに巻き込まれていたように感じる。

母が亡くなったことで枠が外れ、解放された。

自分とは関係ない悪夢の中で役を与えられ、登場人物の一人としてその夢の中で生きることを強いられていたような感覚。

 

私はこれから、私の純粋な選択・行動をする。

そのことが楽しみ。

 

旅と瞬間

 

旅のフィーリングを思い出す。流転している感覚。家がなくて、流転している感覚。旅の途中の町で。

心もとない、さびしい、不安、自由、移動の喜び。

時間がないとしたら

連続ではなく、瞬間、瞬間、だとしたら

ハッ と気づいたら、ある場所にいる

その繰り返し・・・・

それに反抗して、ベース・家・連続性 を創る

同じ が続いている、という安心

旅を好む 人間の性質

安心のために 同じ の連続を創ったのに、それを「日常」と呼んで嫌う

そして「非日常」を求めて旅に出る

同じ の連続を創らなければ、毎瞬が夢で流転だ

美しい流転

なぜ旅に焦がれるのか

その答え

ほんとうは常に流転

または静止。。。。なにも起こっていない

 

 

水平にひろがる日常

 

なにも変わらなくていいとしたら。

 

なにも仕事しなくていいとしたら。

 

このままのわたしでいいとしたら。

 

平穏に歩くだろう。

 

ケーキを作るだろう。

 

パンを作るだろう。

 

天気を感じるだろう。

 

雨の音を聞き、雨に濡れた土の匂いをかいでいるだろう。

 

風が頬にあたるのを感じるだろう。

 

空気の中の湿度を感じるだろう。

 

退屈という言葉は存在しなくなる。

 

気温、湿度、太陽の光の量、それだけとってみても、一瞬ごとに変わっていく。

 

変化 を感じられることが、この世界のごちそうだ。